ネタはいろいろ浮かべど、思い立って書こうというところまでの気持ちが働かず。
気づけば前回の投稿より2カ月。
個人のどうでもいい近況を含めて、つらつらと。
書こうと思っていたネタがいくつかあったので、それをまとめようと思って通院がてらに朝マックでも食べようと、マクドナルドでこれを書いています。
朝のマクドは魑魅魍魎の住処だった
一人で来店し、超大音量でワンセグ?スマホでTV見てるおじいちゃん推定76歳。
飲み物しか頼まず、自分で持ち込んだ(?)っぽいパンを食べながら「〇〇千万の案件なので~」とか話してる胡散臭さしかない、ちょい悪感たっぷりめのサラリーマン推定54歳。
店内で延々と親族の訃報の連絡をしている、ややヲタっぽいおじさん推定49歳。
高血圧で病院にかかってるのに、帰り道で「よーし今日はメガマフィンいっちゃうぞ」とか言いながら、放置してたブログ書いてるオッサン45歳。
最近、たまにスタバに行く機会が増えたんですが、スタバ店内も割と年齢層高いんですよね。
「僕の行く時間がそうなのかもしれない」という正直サンプル数が少ないことを認めます。
それでも、50代~60代の方が店内の70%くらいを占めているのをよく見かけます。
若い世代はテイクアウトなのかもしれません。僕も毎回テイクアウトですし。
なぜそこに憧れるのか
「若い世代へのあこがれ」をよく見ます。
スタバに集う人のすべてがそうだとは言いませんが、そこそこの年代の方が口にする「今、若い子の間でこれが流行ってるんでしょ」という言葉。
古くは「茶髪」や「ソフトモヒカン」がそれで、今でいう「ツーブロック」もそうです。
もちろん、おじさん連中がやりだすころには、若者はもう次の流行を手にしているので、むしろいらんことせずにベーシック貫くほうがかっこいいんですけれども。
そういう軽薄な「流行だから」という言葉だけに動かされる、自分の中にしかない「価値観」を持ち合わせていない人は本当に多い。
それを否定する気持ちはありませんが、今の日本を憂う原因の一つはそこにあるんじゃないかとも思うのです。
経験を重ね、知識や知見を得て、うまく立ち回れるようになった「大人」が、なぜ若者の薄い見た目に憧れるのか。
それは、その人自身が「憧れられるような存在ではない」からに尽きると思います。
100点満点の人間なんて、この世にはいないでしょう。
でも「こういうところって、〇〇さんうまいよね」「△△さんがしてくれるとおさまる」とか、なにかしらその人の特性だったり、強みがあったりすると思います。本人が気づく気づかないは別として。
そういうのがカケラ(まだ発現していなかったり、気づかれていないケースも多々あるので)もない人ってなんなのだろう。
憧れられるような大人になれよ。と言いたい。
自分に自信があるわけではないけれど「憧れられるよう」に努力や研鑽はしている。
加点法で見るか、減点法で見るか。
自分も含め、ついつい人のことを加点法で見過ぎてしまう。
加点法で見るなら、完璧にちかいレベルで判断できる人間でない限り、その人の良さに点数をつけるなんてありえない。
「その人の良さに気づかない自分」はどう見るのか。
かと言って減点法で見るのもなかなか自分のメンタルがやられる。
そりゃ、見るほうも見られるほうも完璧なわけがないのだから。
そんな中で、自分がやっている人の見方?を案内しようと思います。
「天は二物を与えず」作戦
なんやねん、作戦って。
過去記事から読んでいただいている方からすれば「コヴァはついにおかしくなってしまったのか」とでも思ったことでしょう。
ご安心ください。笑いのエッセンスも忘れていません。
とまぁ、しょーもないことはさておき。
僕は以前に、わりとハードなフィジカルバチバチのパワハラを受けたことがあります。
バチバチとか言ってますが、まぁ普通に傷害事件になるレベル。
でも、6人しかいない店の店長だし、当時(四半世紀も前の話です)は地元から遠く離れて仕事をしており、そこから抜け出すこともできずに「なんとかその場で生き抜く」必要がありました。
そこで当時の僕がやったのは「悪いところだけを見ず、いいところだけを見る」作戦。
これって、知り合いにアドバイスするときとかにもよく出ますよね。
「そんなとこ目をつぶって、いいところだけ見ればいい」なんて言い方。
そりゃ第三者からすればいいんですが、当事者からすれば毎日毎日つらいのに、そんなもんスルー出来るかよ、と思うわけです。
実際、僕も20歳当時はやってみたものの、見事に失敗しました。
まぁ、その時は徹底的に怒られないようにするために、周りを常に警戒してセンサーを研ぎ澄ませるという行動で乗り切りましたが。
ただ、トラウマレベルのパワハラだったのもあり、その店をやめた後もなかなか苦しく、でもその店長も面倒見がいい一面があって「嫌いになれなかった」自分もそこにいました。
そして、その善と悪の狭間で葛藤し、苦しめられたのです。
前置きが長いのは僕のデフォルト。ここからが本題です。
・パワハラ店長
・面倒見はいい
・自分の中で葛藤
【結論】モヤモヤする
これが当時の現状でした。
その店をやめてからもいろんな人に出会い、それぞれにいい人や悪い人、面倒な人に楽しい人などいろいろ知り合いました。
でも加点や減点では自分もつらい。
そこで導き出した方法が「天は二物を与えず」ということ。
『一人の人からは、一つのことしか得られない』
つまりは「天は二物を与えず」ということ(本来の意味とは全然違いますが)
ここまで引っ張って、こんな答えかよと思われそうですが、これ結構深いんです。
まず、良くも悪くも「その人からは1つしか得ることができない」という前提。
1つしかないなら、悪いことよりもいいことを得たいと思いませんか?
わざわざ悪魔を目指す人はいないかと思います。
なので、どんな極悪なひとでも、なにかしらいい部分はあるのです。
そう、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタに手を差し伸べたお釈迦様のように。
1つしかないと思うと人間は必死に探す
その人からなにか1つ、たった1つしか得るものがないという状況にすることで、同じ得るなら10点のことよりも20点、あるなら40点や50点のほうがいいですよね。
そうすると、人間(当時の僕)は、その人を観察し始めるんです。
大嫌いな店長を。
でも、店長ってよく見るといいところがあることに気づくんです。
面倒見がいいのは先述しましたが、その人懐っこい要素で年上のお客さんの懐にスッとはいっていく接客や、自分より若い人には兄貴っぽい振舞いをしたり。
そこで結論づいたんです(もっとも当時ではなく、数年後ですが)
「人のいいところって探さないと見つけられない」ということに。
悪いところって、普通に過ごしているだけでも勝手に目に入るので、いくらでも見つけられるんです。
でも、いいところって意識的に見つけないと見つけられない。
ただ、僕はたくさんの人とつながりたい、つながっていたい。
そう考えると、店長のいいところをいっぱい見ても、それはそれで仕方のないことでした。
そんないろんな流れを経て「一人からは1つしか得ることができない」ということにたどり着いたのです。
そして、1つしか得られないから必死に探す
→人を観察する
→意外な部分に気づく
→そんなに悪い人じゃないかも
→良くも悪くもいいところ1つ残して、あとは全部消去
これを徹底することで、僕は人づきあいが変わりました。
変わったとはいえ、クリアしたわけではないので、今も葛藤はあります。
むしろ、葛藤は生きている証なんだと思って、最近は悩むことも楽しめるようになってきました。
・・・で、気づけば書こうと思ってピックアップしていたネタには一切触れずに1時間以上タイピングし続けて、思いのたけをぶつけるだけのブログに。
まぁ、今後もブログは続けたいと思ってはいるので、ごひいきにしていただくとうれしいです。
最近はYouTubeで週2動画更新、週5ライブ配信、と毎日発信がメインです。
ちょっと追い込まれ気味のほうが、自分らしいと気づきました。
それでは、また。
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